top of page

九転十起の男、浅野総一郎に学ぶ!「稼ぐに追いつく貧乏なし」― 逆風の時代にこそ必要なリーダーの胆力 (世の中に無用な物はない、人の嫌がるものには福がある、人脈という「見えない資本」)

2時間前

読了時間:7分

1

2

0

前回のブログで「他人の人生を一度きりで終わらせない」― 伝記を読むことの真価とリーダーの成長戦略 ―についてご紹介しました。

今回は、私が最近出会った先人の中でも特に感銘を受けた一人の起業家、「浅野総一郎」について深掘りしていきたいと思います。


実は、最近ハマっている「ダム巡礼」の中で、彼の偉業と偶然出会ったんです。

  • 建設当時、東洋一の高さを誇った富山県の「小牧ダム」。

  • 関越自動車道からも見える、サージタンクの煙突が印象的な「佐久発電所」とその取水を行う

    綾戸ダム」。


これらを調べていくと、なんと全てが「浅野総一郎」によって作られたものでした。


さらに、驚くべきは、東京湾に広がる京浜工業地帯の「京浜運河」や「広大な埋立地」も、彼の壮大な構想と行動力から生まれたもの。そして、のちに東洋一のセメント会社となる「浅野セメント(現・太平洋セメント)」を創業した人物でもあります。


今回は、**“九転十起の男”**と呼ばれた浅野総一郎の波乱万丈の人生から、現代のリーダーが学ぶべきエッセンスを紐解きます。


1.「損一郎」と呼ばれた青年時代を越えて

総一郎の人生は、順風満帆とは程遠いものでした。富山県の貧しい農家に生まれた(1848年)彼は、地元の豪商「銭谷五兵衛」に憧れ、様々な事業に挑戦します。


「織物」「醤油の醸造」「脱穀機のレンタル」など、意欲的に手を出すのですが、すべて失敗


地元では「損一郎」と陰口をたたかれ、失意の中、夜逃げ同然で上京することになります。まさに、壮絶な貧苦からのスタートでした。


.「金のない者」が仕掛ける本当の商売

上京した総一郎は、まさに無一文。そこで始めたのが砂糖を入れた水を売る「冷やっこい屋」でした。

ree
「原料に元手のかからない何でもない水でも、価値を見出せば商売になる」

彼はここで、商売の原点を学びます。次に、農家で捨てられていた竹の皮を利用した食品包装で成功を収め、さらに当時需要の高かった石炭販売で事業を拡大していきます。


しかし、運命は容赦ありません。強盗の被害に遭い、さらに近隣からの火災で店は全焼。またしても無一文に戻ってしまいます。


3.🔥 再々起:世の中に無用な物はない!「廃棄物利用の天才」

二度目のどん底に立たされた総一郎は、ある決意をします。無一文で実績も信用もない自分は、「ライバルのいない戦場で戦う」しかない、と。現代でいうブルーオーシャン戦略です。


彼は、当時誰もが見向きもしなかった「廃棄物」に注目しました。

ree

(1)コークスの再利用:捨てられた炭屑の価値

ガスの需要が高まる中、問題となっていたのが、ガスをとった後の「コークス」でした。悪臭を放つやっかいもので、有効な処理方法がありません。


総一郎は、官営のセメント工場の技術者に依頼し、コークスがセメントを焼く燃料として使えることを発見! 横浜ガス局の大量のコークスをただ同然で仕入れ、セメント工場に転売して大成功を収めます。


さらに、厄介者だった「コールタール」も、当時流行していたコレラの消毒液の原料として活用。

「人の嫌がるものには福がある」

この発想から、彼は“廃棄物のことは浅野に頼め”という社会的な信頼を獲得します。これはまさに、現代で注目される「サーキュラーエコノミー(循環型経済)」の先駆けと言えるでしょう。


(2)横浜の人糞処理問題までも解決

コークスやコールタールだけでなく、当時の横浜で深刻な課題となっていたのが「人糞の廃棄処理」でした。衛生状態の悪化と伝染病の発生に悩まされていたのです。


総一郎は県知事からの依頼を受け、「人糞にも肥料としての価値がある」と判断。横浜市内に公衆便所を設置し、その処理権利を取得。肥料として売却する仕組みを構築し、収益化に成功しました。


彼は、廃物である人糞を有価資源へと転換する、**“廃棄物利用の天才”**の異名をとる由縁の一つです。

4.捨てられた炭屑が生んだ未来:セメント事業の再生

総一郎の代表的な業績は、セメント事業です。


当時、官営の深川セメント工場は、誰もが手を出さない赤字工場、いわば不良債権でした。しかし浅野は、その「捨てられた存在」に、これからの都市づくり、港湾、鉄道インフラに不可欠な無限の可能性を見出します。


彼は工場を払い下げで買い取り、徹底した合理化と市場拡大により、「浅野セメント」を日本の近代建設を支える基幹産業へと育て上げました。彼の慧眼は、日本の都市化・近代化の推進力となったのです。


その根底にあったのは、「誰も見向きもしないものに価値を見出す力」。彼はそこにこそ、「商いの本質」があると確信していたのでしょう。


5.⚓ 日本の形を変えた京浜工業地帯


ree

浅野総一郎の構想は、一国のインフラをも変えました。


海外視察で発達した港湾施設に目を奪われた彼は、東京~横浜間の遠浅な海岸に注目。大型船が着岸できる港の建設と、運河の開削を決意します。


渋沢栄一、安田善次郎と共に、当時としては桁外れの150万坪にも及ぶ埋立地の造成と、防波堤、運河、道路・鉄道までを含めた壮大な事業計画を申請。大正2年に着工し、昭和3年に京浜工業地帯が完成しました。


彼の埋立地には、自社の「浅野セメント」を始め、数多くの大手企業の工場が設立されます。


💡 豆知識:JR鶴見線に残る人脈

JR鶴見線には、総一郎ゆかりの人々の名前が駅名として残っています。


  • 浅野駅:浅野総一郎

  • 安善駅:安田善次郎(盟友)

  • 武蔵白石駅:白石元次郎(娘婿)

  • 大川駅:大川平二郎(協力者)

  • 扇駅:浅野家の家紋「扇」に由来


6.🤝 人脈という「見えない資本」

総一郎を語る上で欠かせないのが、「人との関係性の築き方」です。


彼の盟友であり、最大の理解者でもあったのが「渋沢栄一」です。ともに「民間から日本を変える」という志を持ち、浅野セメント創業時には渋沢も出資しています。

ree

そして、もう一人が「安田善次郎」(安田財閥の創始者)。安田は浅野の事業に、資金面で継続的に支援しました。


渋沢が「頭脳と理念の後ろ盾」、安田が「財政面の支援者」となり、産業用セメント生産、京浜埋立、水力発電、海運事業など多岐にわたる事業が現実となりました。二人は「浅野がエンジン、安田が石炭」と称されるほど、明確な役割分担で成功モデルを築いたのです。


また、総一郎は多くの若者や技術者を支援し、教育や技術開発に惜しみない投資をしました。

「人材をつくることこそが、国をつくる道だ」

この信念の通り、彼は自らの功績よりも「未来を支える人」への投資を最重要視したリーダーでした。


7.現代リーダーへの3つのメッセージ

総一郎の人生は、現代の経営層・管理職にとって、実務に役立つ思考と勇気が詰まった「地図」です。


(1)「無い中で考える」力を持て

資金、人材、情報が足りない時こそ、リーダーの真価が問われます。浅野のように「捨てられた炭屑」に価値を見出す発想が、未来を切り開きます。


(2)「信頼」を資本と見なせ

浅野は何よりも「信用」を重んじ、「人を騙して金を得ても、それは商いではない」と断言しました。短期的な利得ではなく、長期的な信頼関係を築く姿勢こそが、変化の時代に強い企業をつくる経営資源です。


(3)「他者を育てる」ことに本気で向き合え

事業継続において、組織の後継者や人材育成こそが最重要。浅野が自らの功績よりも「次代を育てること」に情熱を注いだように、現代の管理職にもこれが最大の使命と言えるでしょう。


さいごに:逆境を燃料に変える力

浅野総一郎の人生は、まさに逆境の連続でした。しかし、彼はその逆境を「燃料」に変え、自らの信念で時代を動かしました。


不透明さと変動に満ちた現代だからこそ、今こそ浅野のような「胆力のある経営者」「信念で人を導くリーダー」が必要です。


一回のブログ記事では、その偉業の全てをお伝えすることはできませんが、皆さんもぜひ、先人の伝記を読んでみてください。読み手によって、腑に落ちる事柄も、参考になる決断も違うはずです。彼の人生という「学ぶための地図」を手にすることで、未来の地平線はきっと開けていくでしょう。


筆者:斎藤好弘

ree

2時間前

読了時間:7分

1

2

0

関連記事

コメント

あなたの思いをシェアしませんか一番最初のコメントを書いてみましょう。
bottom of page