
■ ツールに使われる人、使いこなす人

前回のブログ(9月9日掲載)で通勤電車で感じる、静かな居心地の悪さの正体についてお話しましたが、通勤電車の中の居心地を議論するのは、少し無理があるかもしれません。
あの、誰とも目を合わせず、ただスマホの画面に没入している人々の姿を見て、どこか異様な空気を感じても、それは彼ら彼女らの自由です。だから、自分がそこに「阻害された」ように感じても、とやかく言うことはできない——理屈では、そう思います。
でも、やはり気になってしまう。それは、なぜでしょうか?
■ 没入と抜け殻の違い

ふと思い出すのは、昔見かけた、通勤電車の隅に座っていた制服姿の女子中学生です。彼女もまた、分厚い文学書に没 頭していました。ページをめくる速さと、目の動きから、それがただの暇つぶしでないことは明らかでした。
でも、彼女は「抜け殻」には見えなかった。そこにいたのは、確かにリアルな人間でした。
同じように没入しているように見えて、スマホに繋がれた人々と、文学書に夢中になっている彼女の間には、決定的な違いがあるように思えました。
それはきっと、「操っている」のか「操られている」のかの違いではないでしょうか。
スマホに没入する彼ら彼女らは、スマホを「操作している」ように見えて、実はその中の情報の流れに操られている。まるで遠隔操作のロボットのように見えるのです。一方で、彼女は本を読んでいたけれど、本に「読まれて」はいなかった。
たとえ深く入り込んでいたとしても、自分の意思で読み、自分の内側で反応し、自分の思考でその世界を味わっていた。その姿には、人間としての「主体」が確かにありました。
■ 操るつもりが、操られている
こうした関係は、他にも見かけます。

犬を散歩しているはずが、電信柱から電信柱へと犬に引きずられている人
スポーツカーを運転しているはずが、車に振り回されている人
酒を飲んでいるつもりが、酒に飲まれている人
ギャンブルで遊んでいるはずが、ギャンブルに生活を支配されている人
人は、物や道具、趣味や嗜好を「楽 しむ側」にいると思っていても、ふとした瞬間、それに「従ってしまっている」ことがあります。これは、依存や中毒という言葉でも語られる領域ですが、必ずしも病理的な話に限りません。
そして、これは私たちの「設計」という仕事にも、同じように当てはまるのではないでしょうか。
■ 設計ツールに操られる設計者

設計の現場では、CADやシミュレーションツール、設計ルールといった便利な道具があふれています。AIツールの活用も当たり前になってきました。
けれど、こうしたツールが「手段」であることを忘れたとき、私たちは知らず知らずのうちに、それらに操られるようになります。
ある不具合の原因を設計者に尋ねたとき、こんな答えが返ってきました。
「シミュレーションでは妥当な結果が出ていましたし、設計ルールに従って進めました。仕方ないですよね」
この言葉には、設計者としての「考える」という営みが感じられませんでした。まるでスマホに繋がれた人のように、ツールとルールに従うことが目的化してしまい、設計の本質や目的がどこかへ置き去りにされている。
これでは、不具合が起きるのも、当然といえば当然です。
■ 道具と対話するということ

設計ツールや設計ルールは、あくまで「手段」であって、「判断」を下すのは人間です。
けれど、手段があまりに高度化し、便利になればなるほど、私たちはそれを「使っている気分」になってしまい、実は判断を委ねてしまっている——そんな構図に陥りがちです。
では、そうならないためにはどうすればよいのでしょうか。
ひとつのヒントは、先に挙げた例にあります。
犬と人が、互いの好みに合わせて、ゆっくりと公園の散歩道を歩いていく
スポーツカーとドライバーが、人車一体となって美しくコーナーを抜けていく
一杯の酒と丁寧に向き合い、味わい、酔いを愉しむ時間
こうした姿には、「対象との対話」があります。
操るでも、操られるでもなく、互いを理解し合う関係性です。
設計もまた、ツールやルールと対話する営みであるべきです。
このシミュレーション結果は、本当に現実を表しているか?
このルールは、この状況でも妥当か?
なぜ、こう設計するのか?
ツールの出す情報に、問い返す。疑い、確認し、自分で納得する。
それが、「抜け殻」ではない、リアルな設計者の姿です。
■ 人と道具の関係のあり方

道具に使われるのではなく、道具と対話し、共に創造する——そんな関係が築ければ、設計はもっと豊かになれるはずです。
目的に立ち返り、手段を吟味し、結果に責任を持つ。
設計とは、単に「仕様を満たすこと」ではなく、「目的を実現するための創意工夫」であることを忘れてはなりません。
ツールが高度化し、AIが一般化した今だからこそ、設計者一人ひとりが、自分の「判断」と「意志」を持ち続けることが求められています。
道具の奴隷になるな。道具の達人になれ。
そうすれば、きっと私たちは、電車の中の彼ら彼女らのような「抜け殻」ではなく、自分の足で立って設計と向き合う「リアルな人間」でいられるのではないでしょうか。

筆者 : 小川隆也





