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スマホの海に沈む電車の中で (非日常、みなスマホ、誰からも認知されていない)

9月9日

読了時間:4分

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#1 電車一本ずらすだけで見えてくる、別の世界


都営荒川線 早稲田活き
レトロな荒川線

ここ最近、たまたまいつもと違う電車に乗る機会が何度かあった。

普段の通勤ルーチンから外れてみると、電車を一本ずらすだけでも、車内の様子はがらりと変わる。ぎゅうぎゅう詰めの満員電車もあれば、意外と空いている電車もあるし、乗っている人の顔ぶれもまるで違う。オフィス勤めの人たち、工事現場に向かう作業着姿の人たち、リュックを背負った早朝登山のグループ、期末試験に向かう学生、部活の試合に向かうユニフォーム姿の高校生たち……。「いつもと違う時間に乗っただけで、こんなに世界が変わるのか」と、ちょっと驚かされる。


思い返せば昔も、会社からの外出で違う電車に乗る機会があると、ちょっとした楽しみがあった。乗り降りする人たちをなんとなく眺めながら、目についたのは「見た目と行動のギャップ」だったりする。


いろいろな人が利用する
いろいろな人が利用する

たとえば、茶髪に鼻ピアス、足を投げ出して座っていたちょっと強面のお兄ちゃんが、突然すっと立ち上がり、足の悪い人に自然に席を譲る。その一連の動きがあまりにスマートで、思わず見入ってしまったことがある。

あるいは、当時流行っていた超ミニスカートに、ばっちりメイクの女子中学生。大きな目をキラキラさせながら、図書館でしか見かけないような分厚い文学書を、車内のすみっこの座席で猛烈な勢いで読み進めている。見た目とのギャップに驚きつつも、「あぁ、今日もいいもの見たな」と、心が少しあたたかくなる。


電車の中では、ただ座っているだけでも案外退屈しない。何気ない人の仕草や表情に、ちょっとした物語が詰まっていることに気づくからだ。

毎日の慌ただしい通勤の中でも、ほんの少し時間をずらしてみたり、いつもと違う景色に目を向けてみるだけで、新しい発見は意外と簡単に見つかる。日常の中にある“非日常”を拾い上げる目を、これからも忘れずにいたい。


#2 スマホの海に沈む電車の中で


最近、通勤電車でよく感じることがある。

かつては、電車に一本乗り遅れるだけで、車内の風景も、乗っている人たちの顔ぶれもがらりと変わった。誰かのちょっとした仕草や、意外な行動が目に留まり、「今日はいいものを見たな」と思えた。そんな時間が、少しの楽しみでもあった。


けれど、今はどうだろう。


みんなスマホを見ている
みんなスマホを見ている

どの電車に乗っても、乗客は一様にスマホを見つめている。老若男女、作業着の人もスーツの人も、学生も皆、同じ姿勢でうつむき、指を上下に動かし続ける。画面をスクロールする速さが違うくらいで、誰が何を見ているのかもわからない。みんな違うはずなのに、車内は不思議なくらいに「均質」だ。


以前なら、人間観察だけで暇がつぶせたのに、今はその暇すらつぶれない。乗っているのは人の形をした抜け殻ばかりで、まるで“あちら側”の世界に意識を持っていかれてしまったようだ。こちらの世界に残っているのは、自分ひとりだけなのではないか――そんな錯覚に襲われる。


あまりに誰とも視線が交わらない。まるで、自分だけがそこにいないような感覚になる。見られていない。気づかれていない。存在していない。

映画『マトリックス』の繭の中の人間たちのように、スマホというチューブにつながれて、仮想の世界に意識を預けている乗客たち。あるいは、同じように並べられたケージの中で、規則的に餌と水を与えられるブロイラーのようにも見えてくる。


では、そんな彼らから見て、自分はどう映っているのだろうか。いや、そもそも映ってなどいないのだ。彼らの視線の先には、SNSや動画やゲームがある。電車の中にいる“この自分”は、彼らの世界に登場していない。完全な“透明人間”である。

この、奇妙な「孤立感」とでも言うべきもの。その正体は、「誰からも認知されていない」という感覚ではないかと思う。


ようこそ思考の沼へ
ようこそ思考の沼へ

人は、誰かに見られていることで、世界との接続を感じているのかもしれない。けれど今、電車の中では、その接続がほとんど断ち切られてしまっている。たくさんの人とすれ違いながら、誰にも存在を認識されない。そこに居ながら、いないものとして扱われる。

それが、最近の通勤電車で感じる、静かな居心地の悪さの正体なのかもしれない。


筆者 小川隆也


9月9日

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