
注釈 「ひらめき」と「無分別智」の関係 GoogleAIによる解釈
「ひらめき」は、研究対象に没頭し、我を忘れる状態から生まれると言われます。この時、対象と自分が一体となり、分別を越えた状態、すなわち「無分別智」が発揮されると考えられます。「ひらめき」は、通常意識では到達できない、無意識の領域から湧き上がる、悟りに似たものであり、この「無分別智」がその源泉となります。
< 設計者はマゾ? > (設計者)

設計をしていて、一番楽しいのは、ああかなぁこうかな考えながら、おっ、これはうまくいくかも、と思う瞬間でしょうか。
たいていの場合、これはと思ったとおりに進めてみても、上手くはいかず、うーん、どうもなぁ、という繰り返しになるのですが、次には、懲りもせずふたたび、ああかなぁこうかな、おっ、これは…と繰り返しています。
設計者には、マゾが多いと言っていた人がいますが、たしかに、うーん、どうもなぁ、という困った自分も嫌いではないのですが、
自分は、純粋に、ああかなぁこうかな、おっ、これは…が好きなのだと思います。
そもそもを考えるのですが、おっ、これは、の、これは、いったいどこから、やってくるのか、とても気になります。
自分の頭の中か?外か?たぶん外でも中でもないのでしょう。
なんとなく、原因があっての結果、というものとは、違う気がします。
この、おっ、これは、について、ぐるぐる考えていて、いつもたどり着くのが、ブルース・ブラザーズのジェイクが教会で神の啓示をうけて、雷に打たれたようにくるくる連続バク転をするシーンです。ゆきやこんこんで、イヌ駆け回るように、くるくるくるくるバク転します。ジャンプしておおきく開脚までもやってのけます。
うらやましいです。
ジェイクのように、イヌのように、くるくる回りたい。
でもそれは、どうやって?
< ひらめきの原点 無分別智 >(ひらめき、無分別智)

それは、原因によってうながされることのない、純粋ななにかとの出会いがもたらす、こころの動きからくるものなのかもしれません。ジェイクは、それを”Dance!”と叫び、神の啓示としめしましたが、ゆきやこんこんのイヌは、それをなんと示すのでしょう、そして、自分は。
純粋ななにかというのがなにかは、うまく言えませんが、
でもなんとなくですが、自分のこころの動きのほうはいくらかわかります。とにかく自由なこころもちになってないと、その大切ななにかにうまく出会えないような、あるいは出会っても気づかずに通り過ぎてしまうような、そんな気がします。
たとえて言うと、それは、どうも自由なこころもちになったときだけ訪れる、古いたいせつな友達のようなものなのでしょうか。
ああかなぁこうかなと、無心になってやっていて、ふと後ろを振り返ると、開いた扉からゆっくりとその古い友達が入ってきて、やあ、と自分に声をかけます。そして、そっと、自分にだけわかる暗号の紙切れを渡して開いたままの扉から姿を消してしまう。自分はその紙切れを頼りにその友達のメッセージを読み取ろうと、目を凝らす、思いを巡らすけど、、うまくは意味がつかめないまま、その紙切れは手のひらから失われてしまい、
うーん、どうもなぁ、と、夢から覚める。その繰り返し。
でも、大切なのは、なつかしい古い友達の差し出す、”暗号の紙切れ”の示す意味のほうではなく、遠い過去から自分をはるばる訪れた友達の発する ”やあ” のほうなのではないか、そんな気がします。
無心になって、ああかなぁこうかなやっていて、アタマからカラダが切り離されて自由に動きはじめたちょうどそのよいころ合いに、その友達は、はるばる訪ねてきて、 ”やあ” と声をかけてくれる。
今だよ、今なら、きみは、アタマからカラダが解き放たれて、きっと、ジェイクや、イヌのように、バク転したり、走り回ったりできる。
くるくる自由に走り回れるようになるんだよ、とそっと、教えてくれているのかもしれません。
< アタマからカラダを自由にさせる >
昔、はじめて自転車に乗れたとき、

”おっ、その感じ、前を見て、ハンドルに力を入れない、いいよいいよ、もっと、すーっすーっとと、ペダルを漕いで、そのまま回して回して…”と、声をかけられたはず
お、いいよ、その感じ…と言われて、悪い気がする人はいません。
その感じに引き寄せられるように、カラダを繰り返し繰り返し動かしていきます。
そこに紙切れの持つ意味はなく、純粋なカラダの動きだけがあります。
ジェイクは、くるくるバク転をしながら、回るたびにいろいろ違うものが見え始めてきているのかと思います(神の啓示とさけびますし)。
ゆきやこんこんのイヌも回るたびにいろいろなにかがみえているのでしょう(目は宙のなにかを追いかけています)
ならば自分も、せっかくなので、おっ、これは、と来たのなら、こころゆくまで、カラダを動かし、くるくるくるくる、繰り返し繰り返し、回ってみましょう、踊ってみましょう。
意味については、回り終わった後で、アタマに考えさせればいいことです。
よく、意味がない設計をするなとか言われることもありますが、意味があるかどうかなどという下世話なことは、設計終わった後で考えればよいことです。
いまは、せっかくカラダが自由に動くようになり、今まで見えなかったものが、色々見えようとしはじめているのですから、ひとまずは、設計をカラダにあずけてしまいしょう。
< 普段からやっている 無分別智 >
ところで、この、ああかなぁこうかな、無心になって、、ということですが、特別なこと

ではなく、気が付くと、みんなそれを、ルーチンとよんで、実は普段からやっていることなんです。
朝のルーチンでは、アタマではその日の予定を考えながら、カラダは勝手に、パンを焼いて、コーヒーのお湯沸かしながら、顔洗って、歯磨いて、ひげ剃ってます。
朝のルーチンに、意味はないです。純粋なカラダの動きがあるだけ。
だから、アタマは、そのぶん、別のことが考えられる。
設計は、がんじがらめの前提、制約の上に、要求に沿った一連の解を並べていく作業です。ルーチンとして、いろんな作業を、良し/悪し、損/得という意味の天秤にかけては、次から次へと仕分けしながら進んでいっています。
でも、全部それでいいのでしたっけ?
本来やりたかった設計というのは、一体そのどこに仕込むのですか?
意味の天秤だけでこなしていくのだけが、設計ではないはず。
設計では、通常アタマは意味を扱うので、時に設計を進める邪魔をします。
その時、意味は、その人のカラダが本来的にもつ自由な動きを奪うからです(囚われ、こだわり、束縛、偏見、損得勘定として)。
ああかなぁこうかな思いを巡らせて無心になっているとき、アタマは邪魔をするものなのです。
< 自分にしか見えない風景を見るために >
そんな場合には、アタマから切り離された純粋なカラダをつかって、お、これは、、の気づきに導かれるがまま、自由にカラダを動かせれば、どれだけ自由 に設計は進むでしょうか。

転ぶことも、ぶつかることも、穴に落ちることもあるでしょうが、その人には今はそうすることが必要なのだと、古い友達はつぶやくと思います。
その設計を進める方向は、損とか得とか、有利とか不利とか、役に立つとか立たないとか、意味で判断されるものではなく、その人のカラダにとってどこまで本来的にいい <自ずから由し(=自由)> ものなのかで判断されるべきではないかと思います。
というのは、その人にとって、本来的なカラダの動きがあり、こころの動き(ワクワク、ざわざわ)がある状態というのは、その人を、どこかはわかりませんが、その人らしいそのところへと、きっと、引張って行ってくれるものなのかもしれないからです。
そこで、見てみたくないですか、その場所で。
その見えそうで、まだ見えないけれども、 おそらくその人にしか見えない風景を。
筆者 小川隆也